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ぷろどおむ

Author:ぷろどおむ
元サッカー少年。今はしがない化学屋です。

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疫学やメタ・アナリシスは本当に信用できるのか
過去二回にわたって,疫学とかメタ・アナリシスとかの有用性や産まれてきた背景なんかを紹介させていただいたわけですが,そこそこ楽しんでいただけた方もいらっしゃったようで感謝しております。

とはいえ,一見すると,素人目には適当に数字をいじっているだけにしか見えないこれらの分野には,なんとなく騙されているような気分になるのはある意味しかたがないことかもしれません。特に統計データの解釈は,恣意的な操作を組み入れればいくらでも好きな解釈が出来てしまうという危険性は残っていますので,どうしても信用ならないという方がいるのも当然かと思います。

しかし,これらの分野が「科学」の一分野であると認められる理由の一つは,それぞれの研究により用いられている手法が明確に提示され,第三者による再現・再検討が容易である点にあります。逆を言えば,これらのポイントをクリアできていないものは「科学としては認められない」ことになります。

これらのポイントがクリアされることにより,公表された結果を第三者が検証することやデータを再解析することが可能となります。そして,そこからより確からしい結論を導き出すことすら可能となるわけです。もちろんその最たるものが「メタ・アナリシス」です。

もしこれらのメタ・アナリシスや疫学研究による結果に反論があるのであれば,問題点を明記して再解析を行うことで,科学的に反証を行うことは容易です。そして,その反論が科学的なものであれば,両者のどちらがより確からしいのかを第三者が判定することも容易です。ですから,きちんと科学的なメソッドに則って議論を行っている限り,陰謀論なんてものが入ってくる余地はないはずなんです。

疫学におけるオッズ比の算出や,メタ・アナリシスにおける各研究の重み付け処理・再解析などは,すべて数理統計学を基礎として「数学」という言語により厳密に記述されています。出てきた数字の持つ意味は,各研究において異なりますが,数字を出す段階における処理は,すべて数学という厳密で基本的な概念により統一されており,いつでもどこでも第三者による検証が可能です。

数学は明確で厳密であるが故に,ごまかしが効きません。

フェルマーの最終定理やポアンカレ予想は世界中の数学者を100年以上も悩ませ続け,その解決には偉大なる数学者の存在が必要不可欠でした。しかしそれまで誰も見いだすことの出来なかった真実へのか細い道筋も,一度提示されてしまえば,その道筋の正しさを確かめることは世界中の数学者の手で可能となりました。

特にフェルマーの最終定理が証明された際には,最初の証明発表後に問題点が指摘され,その解決に結構な時間が必要となったのは有名な話ですし,そもそも最終的に証明を行ったワイルズ以前に提出された数多くの証明が誤りであることを証明したのは,「証明を提出することすら出来ていなかった」他の数学者たちです。

もし科学の世界が本当に権威主義に支配されていたのであれば,「証明を提出することすらできなかった奴が文句言うなんて不届きな」なんてことを言う人が出てもおかしくなかったでしょう。でもそんな人は存在しませんでした。もちろん,ワイルズも「俺の証明にケチをつけるなんて,それは真実を隠そうとする闇の組織や国家権力による陰謀に違いない」なんてことは言いませんでした。

それは,その指摘の内容が正しいことが周りの人たちも,ワイルズ本人も明確に理解することができたからです。それは,証明が出来たという主張も,その証明に誤りが存在しているという主張も,すべて数学という言語に則り,科学の様式に従って行われたからです。

そして,その後ワイルズが問題点を克服した新しい証明を提示し,その検証が複数の数学者たちにより行われたあと,ワイルズの証明を批判する人はいなくなりました。それは,同じようにワイルズの再証明が科学の様式に則って行われたため,その再証明が数学的に正しいことを周りの人たちが理解することができたからです。

何度でも繰り返しますが,このようなことができた理由は,すべての証明・検証・批判が科学的に正しいやり方で行われたという点に帰着します。

同様に,疫学やメタ・アナリシスの結果も,数学という言語や科学の様式に則って議論が行われている限り,現在や未来において誰でもどこでもその正しさを検証することが可能です。そして根本的に様々な問題が生じやすい分野であるという自覚があるからこそ,何か問題点がありそうだとなれば,即座に検証が行われ,分野全体の信頼度を高めていこうという努力がなされているのです。

1995年にかの有名なScienceが「疫学は限界に直面している」という表題で疫学を批判する特集記事を掲載しました。これに対し,多数の疫学者・医学統計学者が「問題点があるのは事実だが,元々一つの研究結果で言える範囲が狭いにもかかわらず,それだけですべてが結論づけられたような報道をされることが多すぎるために混乱が生じているにすぎない。」と言う内容の批判を返しました。

これはマスコミだけではなく,マスコミというフィルターを通して疫学による研究結果を受け取る我々も肝に銘じなければいけないことだと思います。

個々の研究が設定している範囲,内容などを理解せずに,疫学研究結果を盲信することも全否定することも同様に慎まなければいけません。そして,それは疫学だけにかかわらず全ての科学的な成果(あるいはそう主張されているもの)についても同じことが言えると思います。

つまり,結論は何かというと簡単なことなんですね。

信用できる分野があるのではなく,
信頼できる研究結果が存在するだけ


結局のところ,信用できるかどうかの判断基準は,その成果がどの学問分野で見いだされた結果なのかということではなく,その結果がどれだけ誠実に積み上げられたデータを元に得られたものか,と言うその一点に尽きるわけです。

ここまで説明してきた通り,疫学だろうが,メタ・アナリシスの分野だろうが,丁寧にデータを積み重ねていけば,いくらでも信頼できる結果を導き出すことが可能です。それとは反対に,物理学や病理学の分野であっても,信頼に値しない結果を出すことはいくらでも可能なわけです。だからこそ,我々には「わからないから」と鵜呑みにしたり排除したりするのではなく,「わかるための努力」を惜しまない態度と意識が必要になってくるのだと思います。

というわけで,最後の数段落を言いたかったためだけに,ずいぶん長々と書いてしまいました。最後まで読んでくださった方,ありがとうございます。お疲れ様でした。

さて,次は何の話にしましょうか?(^^; もちろん現在手元にあるネタのストックはゼロです(ぉ

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雑学 | 13:04:32 | Trackback(0) | Comments(3)
メタ・アナリシスはなぜ必要なのか
前回のエントリは思った以上にご好評をいただいたようで,ちょっとかなりプレッシャーを感じていたりしますが,ご期待もいただいているようなので前回の続きです。

さて,前回も少しお話しいたしましたとおり,疫学は基本的にマクロな事象を取り扱う学問であり,そのための方法論です。このような方法論は他に変わるものがあまり存在しないため,得られた疫学データの信頼性を検証するには,

1) どのようにして得られたデータなのか
2) どのようにして解析されたことにより得られた結論なのか

の二点を検証する以外にありません。これはすなわち「適切な研究デザインが選択されているか」を評価していることに繋がります。

疫学における研究デザインについては,以前もご紹介させていただきましたが,その目的や状況に応じて適切なものを選ぶ必要があります。

一般的には「前向きコホート研究」と呼ばれるものの信頼性が高いとされることが多いですが,費用と時間がかかりすぎるという最大の問題点があるため,常に適切であるとは限りません。また,通常の場合サンプル数が多ければ多いほど,観察期間が長ければ長いほどデータの信頼性が高くなることが期待できるわけですが,こちらも無限に増やすことは出来ないわけです。

疫学が対象とする分野は原因と結果が多対多の関係を持つ複雑でマクロな事象であるにもかかわらず,実際に研究を進める上ではこのような足かせが生じてしまうため,どうしても一つの研究だけで因果関係を導き出すのは困難となります。そのため,良くできた研究でも相関関係を見いだすのが精一杯となることが多いです。そして,そのような状況を打破するための解決策として用いられ,磨かれてきた手法が「メタ・アナリシス」と呼ばれる方法論です。

「メタ・アナリシス」は,過去に行われた複数の研究を統合し,それらの研究成果全体を統計的に解析することで,より確からしい因果関係を導き出すことを目的とする手法です。

もちろん,その手法の中には「その研究を統合することが適切かどうか」という判定基準も含まれ,国際的な合意ルールも存在しています(参考:臨床研究と疫学研究のための国際ルール集)。

歴史的には19世紀末頃には疫学分野でもこのような考え方が用いられはじめたようですが,初期に「メタ・アナリシス」という用語と方法論が活躍し,発展したのは主に社会科学,特に教育学の分野だったようです。おそらく疫学以上に評価の難しい教育法の評価と言った場面では,統計的な解析を用いる客観的な評価が必要不可欠だったのでしょう。

疫学,というか臨床試験の評価にメタ・アナリシスを用いることが尊重されるようになったきっかけは,1985年にイギリスのRichard Petoにより報告された心筋梗塞後のβブロッカー長期投与による2次予防効果についてメタ・アナリシスを行った論文ではないかとされています。

この研究では個々の事例ではオッズ比の信頼区間が1をまたがってしまうために治療効果を評価することが難しいような15種類の無作為化比較試験(RCT)研究(15例中単独で有意差が認められたのは,わずか2例)について評価を行い,統合オッズ比として0.77(95 %信頼区間 0.70-0.85,p<0.0001)という結果を導き出しています。これは治療により死亡相対リスクが23%減少されることが期待できることを意味しており,個々の研究事例では明確ではなかった治療法の有効性が,メタ・アナリシスを行うことにより明らかになったのです。

このように臨床試験評価におけるメタ・アナリシスの利用は,EBM(根拠に基づく医療:Evidence-Based Medicine)という概念の必要性と共に高まっており,その方法論は疫学の分野でも利用されてきています。

もちろん疫学研究は臨床試験評価研究のように意図的にデザインされたRCTを行うことが非常に困難であり,こちらで示したような様々なバイアスを取り除くのも難しい場合が多いです。そのため,メタ・アナリシスを行う上でもより慎重に各研究を評価する必要があるわけですが,それ以上に単一の研究結果だけでは行いにくかったリスク評価を行えるようになると言うメリットは非常に大きいため,利用頻度は上がってきています。

最大のメリットは,先ほどのβブロッカー長期投与の話でも出てきたとおり,「個々の事例では判定できないような事例についても,判定が可能となる」ことです。

たとえば,先日コメント欄で話題になったタバコの受動喫煙に対する疫学調査ですが,JTにより公開されている資料のp.9-10にあるとおり,個々の疫学調査の結果だけ見ると,95 %信頼区間が1をまたいでいるものが多く,明確な有意差が得られている事例は非常に少ないものとなっています。しかし,これらの研究についてメタ・アナリシスを行うと,IARCの報告書(p.1263以降)にあるように,統合された結果として有害であることが導き出されたりするわけです。ちなみにこの報告書では,配偶者や職場で副流煙に暴露している人の肺ガンリスクが増大していることは認めていますが,子供が親から受ける副流煙の影響に関しては,明確な有意差がないとしています。どうせ陰謀を巡らすなら,子供への被害を訴えるのが一番情緒的に簡単なのに,その辺を外してくるのは詰めが甘いのか,それとも非常に姑息なのか判断に迷うところですね。

さて,メタ・アナリシスに特有なバイアスとして「出版バイアス(公表バイアス)」と呼ばれるものがあります。

これは,よりポジティブな結果が出たもののみが公表されやすいというバイアス(喫煙の場合は,喫煙が有害であるという結果が出たもの)です。つまり喫煙は無害であるという結果が出てしまった研究成果は,公表されていない可能性が高くなるのではないか。と言う可能性です。もちろん先ほどのIARC報告書でも,このバイアスについて検討されていますが,メタ・アナリシス最大の問題点とも言うべきこのバイアスについて,検出方法や影響を取り除くための手法など,今回はその詳細は省かせていただきますが,様々な手法が検討され検証されています。また,同様の検討や検証は他の様々なバイアスについても行われており,疫学もメタ・アナリシスも今なお改善され続けているのです。

というわけで,長くなりすぎましたから今回はひとまずこれまで。さすがにメタ・アナリシスの数理統計学的な部分についての解説を私に要求する人はいないと思いますが,求められても無理なので勘弁してください(ぉ 

というわけで,次回はさらに抽象的な話になります(^^;

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雑学 | 15:28:17 | Trackback(0) | Comments(0)
疫学はなぜ必要なのか
この辺でお約束した疫学の話です。だいぶ間が空いてしまってすいませんでした。いつものようにかなり長くなっておりますので,前置き無しに早速始めましょう。

と言いつつ,いきなり疫学の話には入りません。まずは自然科学というものがどういう構造をしているのかをご理解いただこうかと思います。ここをご理解いただいた方が,疫学がどうして必要され,生み出されてきたのかがより一層理解しやすくなると思います。

さて,「いわゆる自然科学は積み重ねの学問であり,その根底にあるのは数学である。」と言う認識に異議を唱える方は,そんなに多くはないのではないかと思います。数学は純粋に理論的な部分を扱う唯一の学問であり,現実に存在しているかしていないかを問いません。

現実という足かせを持たず純粋で自由な理論数学から,ある意味現実に歩み寄りを見せている分野が応用数学や理論物理学と呼ばれる分野です。理論物理学でも現実に存在しているかどうかが不明なものを扱う場合がありますが,基本的には「この理論が正しければ現実でも成立するはず」というストーリーで話が進んでいきます。

実験物理学は,現実という足かせを大いに受ける分野であり,理論物理学が提案した理論を実証するために全力を尽くします。ただ,現実ではありますが限りなく理想的な状態を実現させることを目指し,その中で理論が成立するかどうかを確かめることが多いです。

そこからさらに現実に踏み込んだのが化学の世界です。

物理と化学の境界領域である物理化学の分野でも比較的理想状態の構築を目指しますが,見ている対象は分子であり,分子の反応になってきます。理論化学の分野においても,実際の反応が行われる場を前提条件として,理論の構築を目指します。もちろん物理化学以外の化学においてはなおさらです。現実に存在する反応空間においてどのような現象が起きているのかを知り,利用するわけです。

と,ここまでは比較的一本道なのですが,ここから先は一気にばらけ,現実にある個々の現象に密接した生物学・地学・工学・医学など様々な分野が存在し,それぞれにおいて,その場面における現実を意識した学問へと発展しています。

しかし,それぞれの分野において実際に起きていることは化学反応であり,その化学反応の元になっているのは個々の分子の持つ物理的性質や場の物理的特性であり,それらを最終的に説明するために用いられる言語は数学です。つまりすべての自然科学は最終的に数学に帰結すると言っても過言ではないわけです。

では,全ての事象が最終的に数学で説明することが出来るのなら他の学問は必要ないのでしょうか?

極論を言えば,答えはYesであり,Noでもあります。

自然科学がこのまま無限に発展し続ければ,いつの日かすべてが数学で説明できる世の中になると自然科学者は考えています。だからこの答えはいつの日かYesになります。

でも,現実問題として数学だけで何とかなるのかと言えば,もちろんNoです。

私の専門に近い分野で言えば,(ちょっと古い話になりますが)ノーベル賞を取った田中耕一さんの専門である質量分析と呼ばれるテクニックは,様々な分野で今では無くてはならない重要な分析手法の一つとなっています。しかし,質量分析計の中で起きている化学反応は,理論的に完全に証明されているわけではありません。経験的に「このような条件ではこのような反応が起こりやすいようだ」と知られてはいますが,実験をする前に完全に結果を予測することはまだ出来ません。また質量分析計とセットで用いられることの多いクロマトグラフィーと呼ばれる分離分析手法があります。こちらも分析を行うラボならたいてい一台はあるものですが,そのような手法ですら実験を行う前に中で起きる挙動を完全に予測することは不可能です。

結局のところ,数学だけでは説明できない複雑な条件の絡んでくる事象を説明するために,物理や化学をはじめとする様々な学問分野が産まれてきたのです。なので,この分野は優れていて信用できるが,この分野は信用できないなどと言う議論をすることそのものがナンセンスなのです。そして,今観測された事象,あるいは今主張されている現象や理論は本当に現実に存在する現象なのかどうかを検証せずに鵜呑みにすることはかなり誤ったことではありますが,その存在が厳密に証明された事象を「数学的に解明されていないから」と言って一蹴するのも,明らかに誤った態度です。

結局のところ,どのような土俵ではどの分野の議論を用いるのが適正か,という選択の問題に過ぎず,大切なのはそれぞれの分野が持つ能力の限界を正しく知り,その境界を正しく判断することなのです。

数学はすべての自然科学の基本言語であり,数学により記述することで様々な事象に対する個々の事例を,より本質を捉えた抽象的な形で理解することが可能となります。しかし,現段階においては,数学と現実を結びつけるためのステップとして物理や化学が必要であり,物理や化学が見つめるミクロな事象を超えたマクロな事象を扱うその他の様々な分野の存在が必要不可欠です。

と,ここまではご理解いただけましたでしょうか。ではいよいよ,本題である疫学の必要性の話をいたしましょう。

疫学の定義は「特定の集団における健康に関連する状況あるいは事象の、分布あるいは規定因子に関する研究。また、健康問題を制御するために疫学を応用すること。」となっているとおり,疫病や公害による影響などを調べ,その原因を類推することに特化された学問です。

では,なぜその様な学問・考え方が必要になったのか。答えは簡単。それは「疫学以前の考え方では解決できない問題があったから」です。

これは,数学だけでは解決できない分野をより深く知るために,物理学や化学が生まれてその方面に特化し,これらが扱える領域を超えた事象を扱うために,さらに様々な分野が産み出されていったのと,まったく同じです。

病理学と呼ばれる分野は,病気の原因を細胞、組織、臓器のレベルから調べ,病気の発生するシステムを解明し,診断などに利用するための学問です。生物学における知見を医学診断・治療などに繋げるための分野であり,この分野において解明がなされれば,病気の診断・治療・予防などは飛躍的に促進される可能性が高いです。

しかし,この分野が対象としているのは個体レベル以下のミクロな世界であり,ウイルスや病原菌が細胞内でどのような挙動を示すのかはわかっても,その結果もたらされる伝染病がどのような形で社会に蔓延していくのかはわかりません。ある化学物質により細胞が腫瘍化することはわかっても,その化学物質がどのような形で取り込まれるのかもわかりません。

また,最大の問題は,病理学というものはある事象に対する「一対一」の関係を知ることが基本であり,複数の原因が絡み合うような問題を解決することは不向きな点です。化学の分野でいくら体内で行われている個々の化学反応が理解されたとしても,様々な化学反応が絡み合って出来ている生物個体全体で起きている事象を理解することが不可能なのと同じです。ましてや個体を超えたレベルのマクロな社会や,閉鎖されていないオープンな環境条件まで原因に絡んでくるとなると,完全にお手上げです。

そのため,疫病や公害による健康被害,環境汚染と言ったよりマクロな事象を病理学だけで解明しようとするのは無理がありすぎ,このような問題を解決するために導き出された方法論こそが「疫学」なのです。

疫学は,基本的にマクロな事象で観察される数々の状況証拠から因果関係を導き出そうとする学問です。このような方法論から健康問題に対してアプローチを行う学問は他には存在せず,それ故にマクロな事象における原因を導き出すためには,疫学的な方法論は必要不可欠となります。逆に言えば疫学的な方法論を度外視して行われたマクロな事象に対する議論は意味が無いのです。

もちろん,数多くの原因が存在するマクロな現象を扱うわけですから,一個の研究から因果関係そのものを導き出すのは非常に難しく,出てくるのは相関関係止まりの場合が多いために,一個の研究から明確な結論を導き出すのも困難な場合が多いです。

では,やはり疫学は信用できない学問なのでしょうか?

そう思った方は自然科学の研究者をなめています。

我々みたいな門外漢の素人が思い当たるような弱点を,その道に人生を捧げた専門家が気づかないわけがありません。ですから,そのような弱点を克服するための方策はもちろん検討されているわけです。

そのような手法の最右翼として注目され,用いられているのが同じテーマに対して行われた複数の研究を網羅的に取り扱うメタアナリシスと呼ばれる手法です。

というわけで,予想通りバカみたいに長くなりましたので,メタアナリシスの話はまた次の機会にさせていただきたいと思いますが,とりあえず「ああ,疫学って必要なんだな」と思っていただけましたでしょうか。

もちろん疫学は根本原理と言うよりは,わかりにくい事象をわかりやすくするためのツールに近いものです。ですから,「疫学的な方法論を使うとわかりやすくなる場面があるのだな」と言う理解でも十分ですので,ぜひよろしくお願いします。

というわけで,次回はこういう理解をしてもらったのを前提の上で話をさせていただこうかと思います。

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雑学 | 12:00:02 | Trackback(0) | Comments(0)
エネルギーはなぜ必要なのか
正直こういう意見は聞き飽きた感があるのですが,これだけ発言力があって有名な人が未だにこんな事を真顔で公言しているのにはあきれてしまいます。

エネルギー政策について(内田樹の研究室 )

人類全体に利益をもたらすエネルギー政策があるとしたら、それは「世界中の国民が一斉に産業革命以前のライフスタイルに戻る」というものだけである。
私はこの政策に賛成なのだけれど、同意してくれる人はあまりいない。



当たり前ですよ(--; >同意してくれる人はあまりいない。

現実問題として,実現できるかどうかなんてこと以前にお気楽に言ってるこんな発言が

数十億人への死刑宣告である


ことに等しいってことを意識していないのですから,一体誰が賛同するものですか。あるいは,本当にその位の人間が死んでしまえばいいと思っているんでしょうか。どちらにしろすごいものです。

Wikipediaによれば,産業革命が起きた1800年代半ばの人口は10億人前後。それに対して現在の人口は約70億人前後。差し引き60億人の命がどのように養われ,維持されているのか。なぜこのような大先生が,こんな単純なことに考えが回らないのか不思議でしかたがありません。もしかして,考えた上で本当に死んでしまってもいいと思っているんでしょうか。それとも,複雑な問題を単純化する姿勢に一石を投じた先生独特のユーモアなんでしょうか?高尚すぎて私には理解できませんが。

まぁ,以前うちのブログに来ていた方の中にも「どうせ人類もいつか滅びるんだから,多少早くなったって別にかまわない。」という意見をお持ちの方がいらっしゃいましたから,意外と多数派なのかもしれません。

でも,私はそんなつまらない未来はごめんですので,もうちょっと無い頭を絞って悩み続けていきたいと思います。

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雑談 | 14:25:29 | Trackback(0) | Comments(1)
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